北前船の港町に「出羽三山」系の信仰
秋風が吹き抜ける、妻入り出格子の町並みが風情いっぱいの村上市塩谷。
集落の南端部、荒川の右岸に身を横たえる新潟県で最も低い山「稲荷山」(標高15.3m)から見遣る甍(いらか)の波が格別の景色ですが、この度はさらに深い塩谷の魅力に迫りたいと思い、家々に囲まれてひっそりとたたずむ姿がなんとも鄙びていて魅力的な「円福寺(えんぷくじ)」を訪ねました。
剣に蛇が巻きついた造形が特徴的な剣権現
「塩谷」について
港町として栄えた塩谷集落は鎌倉時代の古文書にその名前が記されているなど、歴史と伝統が息づくところです。やや内陸部からの移転を経て、現在の場所に町並みが構えられました。
人も物も行き交う要所だったため様々な産業が根を下ろし、今でも醸造業が営まれていたり、旧家の家財には漆が贅沢に使われていたり、往時の繁華を感じることができます。
そんな豊かさを持ったところに、円福寺は建立されました。
塩谷集落内にひっそりとたたずんでいる円福寺
お寺なのに神社でよく見られる注連縄がかかる
お寺の成立と移転
円福寺は戦国時代の真っ只中、1533年に尭海によって開山。空海が開いたとされる湯殿山注蓮寺(山形県鶴岡市)の末寺です。
当初は現在の平林小学校の北に建立されたそうですが、長い自然の営みによって地形が変わったことで集落が浜手へ移ったこともあり、現在地に移転したとのこと。そのため、かつての円福寺の痕跡周辺を“古屋敷”、そのそばを“門前”と呼ぶようになったと言われています。
この円福寺移転の理由については、「夜な夜な怪しいことが起こったので村はずれに引っ越しを…」という伝承もあるそうです。
ご住職の不在による廃寺や、新たなご住職の着任を得ての再興などを経ましたが、現在は住職不在となり、集落住民有志でつくる「円福寺保存会」のみなさんが管理されています。
保存会メンバーで近くで和菓子店を営む野澤大六さんにご案内いただき、各所を拝見しました。
明治11年、17世宝海のころに旧亀田町の信徒から奉納された大錫杖(だいしゃくじょう)
明和4年(1767)、9月10日の日付の入る棟札、3,000人が関わったという記載も
「御沢仏」って何?
円福寺のお堂には、ご本尊の大日如来や祈祷に用いた護摩壇を囲うように「御沢仏(おさわぶつ)」が回廊を成しています。そのため本堂は「御沢堂」とも呼ばれます。
湯殿山の修行者は沢を駆け上がる「御沢駆け」の際に「湯殿山法楽」を唱えます。湯殿山法楽は御沢駆けの時に見える景色を神仏ととらえてその尊名を並べたもののため、一般的な神仏とは異なった造形が浮かびます。「御沢仏」はその“異形”とも言える神仏像の集合群です。
仏教や神道に造詣の深い人ほど、拝観すればその異質さを強く感じることでしょう。しかし、その異質な感覚は不気味さや禍々しいものではなく、とても魅力的でぬくもりのあるものです。高明な仏師による逸品、豪華絢爛な装飾を施した伽藍とはまったく違う信仰の空間がそこにあります。
円福寺の御沢仏は合計24組の神仏像群です。像の周りには流木などを配置し、水を思わせる青い塗料を用いた装飾もあり、海のそばにある港町らしい設えです。造形の作風や大きさなどに統一感はあまりありませんが、修繕や紛失(盗難?)の際に人々が持ち寄ったりしてきたことをうかがわせる手づくり感が新鮮です。
【円福寺の御沢仏尊名】

1.子安地蔵菩薩、2.剣権現、3.大聖仙人権現

4.薬師権現、5.御釜権現、6.血ノ池権現

7.梵天帝釈両部尊、8.御沢八万八千仏、9.御蔵大黒弁財天

10.日月燈明仏、11.胎内権現、12.青面金剛童子

13.十三仏、14.飯ノ山白衣権現、15.飯綱権現

16.愛染明王、17.御滝大聖不動明王、18.仏生池大聖無量寿菩薩

19.天照大神、20.御流釈迦文殊普賢菩薩、21.御前護身仏

22.水神権現、23.御裏/三宝荒神、24.護身仏
親しみを込めて“しょうにんさま”と呼んでみる
昔々、寺社へのおまいりは信仰によるもののほか、庶民にとって娯楽的な側面もありました。「西の伊勢参り、東の出羽参り」と言われ、戦国の世を経て泰平となった江戸時代には、世話役などを立てて、宿泊地では宴席まで開く参拝旅行が流行したと言われています。
塩谷にも「湯殿山講」が存在しており、その証となる木札や写真が円福寺に納められています。こうした点からも塩谷の人々と湯殿山、円福寺に強い結びつきがあったことがわかります。
ご案内いただいた野澤さんも中学生のころに湯殿山講に参加した経験をお持ちでした。「子どものころ、御沢堂は今のように照明もなかったので肝試しをするような、少し気味の悪いところでした」という回想も。また、「探し物の在処を住職に尋ねると見事に言い当てた」という住職の知見にまつわる逸話や、代々体が不自由な人を住職として迎え入れたという社会的包摂の萌芽のような伝承もあり、塩谷の人々をはじめ、信仰を寄せる近郊の人々と湯殿山や円福寺が心的に結びついていたことを強く感じました。
地元の方の中には円福寺を“しょうにんさま”と親しみを込めて呼ぶ人もいます。厳格さや律することとはちがったアプローチの信仰が息づいている様子は、社会とは共同体であるということを諌めてくれるようでもあります。
昭和44年の湯殿山講の一行、中央が20世斎藤善明海氏
全国に4ヶ所 御沢仏を擁する円福寺を守ろう
湯殿山での修行場を写す「御沢仏」は、円福寺のほか、山形県鶴岡市の瀧水寺大日坊、山形県白鷹町の塩田行屋、秋田県能代市の龍泉寺のたった4組しか現存していません。比べてみるといずれも少しずつちがいがあり、それぞれに魅力があります。
日本に仏教が伝来した当初、仏と神は別の存在でしたが、やがて神仏習合・混淆をする“本地垂迹説”が広まり、庶民はおおらかに仏も神も同じように信仰しました。
江戸から明治に入ると、国策により神仏分離が進みました。湯殿山を含む出羽三山系の信仰も神仏分離の影響を色濃く受けた信仰文化で、寺社を取り巻く環境は慌ただしいものでした。現在では神道で用いられる神さまの名前、仏教で親しまれる仏さまの名前、いずれにも当てはめにくい独特のものなど、湯殿山法楽から御沢仏に具現化した神仏像の尊名からも、その変化を見ることができます。
歴史的価値、宗教美術的な価値はさておき、信仰の中でも特に庶民の心の拠り所となっていた意味から、近年御沢仏の保全や修復の動きも高まってきました。
円福寺保存会は会員の高齢化に悩んでいるとのことですが、他所の視察や寺院の管理、公開などの運営を行っています。
野澤さんも「今後は、まず会員や集落住民が円福寺の良さを再認識することなど、手の届くところから活動を根付かせたい」と話していました。
クラウドファンディングなどを活用した保全活動の例もあるそうなので、これからもたくさんの人に円福寺や御沢仏の魅力が届くといいですね。
照明を落として野澤さんが肝だめしをしたころを再現、怖い
人が「集まる」「結ぶ」「つながる」ということ
今と比べて当然科学技術が発達していなかったころ、人間にはない不思議な力やご利益、時には罰すら与える存在だったお寺や神社は、暮らしの営みにおける道しるべのような場所だったのだろうと思います。
御沢仏を集落内のお寺に安置したというのは、言い換えれば「講としておまいりする湯殿山を集落に設ける」ということです。願いを掛ける神聖な場所であると同時に、子どもたちの遊び場にもなった場所は、むずかしい宗教論を抜きに「人が集まる」「心を結ぶ」「先祖とつながる」ような、私たち日本人が本能的に感じる自然への信仰(アニミズム)に近いどこか土着的な精神文化圏を形成していたのかもしれません。
北前船で栄えた風情が残り、今も町並みを眺めに訪れる人が行き交う塩谷で、時ににぎわう大通りとは対照的に寂寞(じゃくまく)とした様子の円福寺は“忘れられてしまった古刹”といった趣きです。
10月25日(土)に開かれる秋の恒例イベント「塩谷の町屋散策」では、保存会メンバーが常駐し円福寺も公開されます。ぜひ、この機会に一度訪ねてみてはいかがでしょうか。昔の人が「出羽参り」に心を躍らせたように、新潟県の北に広がる出羽三山系信仰を知る旅への扉が私たちにも開かれるかもしれませんよ。
塩谷の町屋散策
2025年10月25日(土)10:00〜15:00
◯町屋見学…元菓子屋、野澤食品工業、瀬賀商店、鹽竈神社、旧マルマス醤油蔵、円福寺ほか
◯茶席………元菓子屋、瀬賀商店(茶券700円)
◯イベント
「しおやでJazz」
13:00〜15:00 旧マルマス醤油蔵
入場無料
平林小児童によるダンス(鹽竈神社前)、町屋ガイド、スタンプラリー
中原一磨 路上絵画展
飲食販売など
塩谷の町屋散策